経済史と哲学史
カール・マルクスは1818年に生まれ、1883年に没した。フランス革命後のヨーロッパ秩序のなかで、1830年革命、1848年革命へと至る政治的激動期を生きた思想家である。彼は当初哲学を学び、ヘーゲル哲学の影響を受けた。ドイツ観念論はカントからヘーゲルへと展開し、主観的精神から絶対精神へ至る弁証法的発展を構想した。ヘーゲルは家族・市民社会・国家といった客観的精神の制度的形態をも理論に組み込んでおり、単なる抽象的観念論ではなかった。そこから派生したヘーゲル左派は、予定調和的体系を批判的に転倒しようと試みた。
とりわけフォイエルバッハは1841年『キリスト教の本質』を刊行し、人間の類的本質が神へと疎外される構造を批判した。疎外された本質を人間自身へ取り戻すことが課題とされた。この疎外論は宗教のみならず、政治・経済にも適用され、初期マルクスにも影響を与えた。1844年の『経済学・哲学草稿』では、私的所有と商品経済のもとで労働の力能が商品へと疎外される構造が論じられている。この草稿は未刊に終わり、1932年に公刊されて以降、20世紀のマルクス研究に大きな影響を与えた。
しかし1845年、『フォイエルバッハに関するテーゼ』およびエンゲルスとの共著『ドイツ・イデオロギー』において、マルクスは理論的転回を遂げる。人間の本質は抽象的な「類」ではなく、「社会的諸関係の総体」であるとされ、意識は存在に規定されると主張された。ここに唯物史観が確立する。シュティルナーの個人主義的アナーキズムをも踏まえつつ、抽象的類概念と孤立した個人概念の双方を乗り越え、生産関係と階級関係の具体的分析へと向かったのである。第十一テーゼにおいて「哲学者たちは世界をさまざまに解釈してきたにすぎない。問題はそれを変革することである」と述べたことは象徴的である。
1848年、『共産党宣言』が刊行され、直後にフランス二月革命とドイツ三月革命が起こったが、革命は挫折した。フランスではルイ・ボナパルトがクーデタを起こし、第二帝政を樹立した。マルクスは1852年『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』でその政治過程を分析し、代表と被代表の乖離がボナパルティズムを生む構造を示した。
その後、マルクスはロンドンで経済学研究に専念し、1857–58年の『経済学批判要綱』(グルントリッセ)を経て、1867年に『資本論』第一巻を刊行した。重商主義から重農主義、スミス・リカードに至る古典派経済学を批判的に継承し、労働価値論を再構成した。価値形態論を通じて、労働が社会的必要労働として交換過程で承認されることによって価値が成立する構造を明らかにし、剰余価値の生産と資本の自己増殖運動を解明した。第二巻・第三巻は未完に終わり、エンゲルスが編集刊行した。
マルクスは1864年に第一インターナショナルの設立に関与し、プルードンやバクーニンらアナーキストと論争した。1871年のパリ・コミューンを評価しつつも、その敗北を経験した。1875年の『ゴータ綱領批判』では社会民主主義を批判し、共産主義を理想状態ではなく現実的運動と位置づけた。こうして理論的・実践的活動を続けながら、1883年に生涯を終えた。
マルクス没後の展開を概観すると、まず1889年に第二インターナショナルが結成され、エンゲルス、カウツキー、ベルンシュタインらがその理論的中心を担った。19世紀末から20世紀初頭にかけて、この潮流の内部で顕在化した主要な問題は、経済主義的傾向の強まりであった。すなわち、生産力の発展に伴って生産関係が変化し、それに応じて上部構造も変わるという、ある種の進歩史観が支配的となった。社会主義は歴史的発展の必然的帰結であるという理解が、理論的にも政治的にも広がっていった。
エンゲルスは晩年、「自然弁証法」と称して、弁証法的発展が自然界にも貫徹していると論じた。当時はダーウィンの進化論が大きな衝撃を与えており、自然界において進化論が宗教的世界観を打破したのと同様に、社会においてはマルクス主義が科学的理論であると位置づけられる傾向が強まった。社会ダーウィニズムはしばしば右派的イデオロギーと結びついたが、進化や発展を強調する思考様式そのものは、19世紀的進歩主義の空気を共有していたと言える。
他方、現実の社会状況も変化していた。普仏戦争(1870–71年)後のドイツでは、ビスマルクが社会主義を弾圧する一方で、疾病保険や年金制度の導入など社会保障政策を進める「飴と鞭」の政策を採用した。マルクスの時代には、女性や児童を含む労働者が低賃金で酷使され、失業者は労働予備軍として賃金を抑圧するという絶対的窮乏化が想定されていた。しかし19世紀末には、国家が一定の調停機能を果たし、労働者の生活条件も部分的に改善されつつあった。この状況を踏まえ、ベルンシュタインは革命路線を修正し、議会内で多数を獲得して漸進的改革を進めるべきだと主張した。これは「修正主義」と呼ばれ、正統派から批判されたが、後の社会民主主義の基礎を形成した。他方、カウツキーは正統を擁護しようとしたものの、経済主義的・進歩主義的枠組みを共有していた点で大きな差異はなかった。
このような潮流に対して、ロシアで革命運動を組織しようとしていたレーニンは、1902年『何をなすべきか』において経済主義を厳しく批判した。自発的労働運動に任せるのではなく、前衛党が階級意識を注入し、政治的主導権を握らなければならないと論じたのである。その理論的根拠は、1916年刊行の『帝国主義論』に示された。ヒルファーディングの『金融資本論』などが示したように、資本主義は銀行資本と産業資本の融合による独占段階へと移行しつつあった。レーニンは、独占資本主義は「組織された資本主義」として安定化するのではなく、むしろ国際的分割と再分割をめぐる争いを激化させると論じた。ローザ・ルクセンブルクも『資本蓄積論』において、資本主義が拡大再生産のために常に非資本主義圏を必要とし、植民地分割へと進むと分析していた。
1914年に第一次世界大戦が勃発すると、第二インターナショナルの各党は自国政府の戦争遂行を支持し、インターナショナリズムは崩壊した。フランスのジャン・ジョレスは反戦を訴え暗殺され、ドイツ社会民主党も戦時公債に賛成した。こうして第二インターは事実上瓦解した。この状況下でレーニンは、「帝国主義戦争を内乱へ」とのスローガンを掲げ、帝国主義の鎖の弱い環である後発国ロシアにおいて革命を実現すべきだと主張した。不均等発展の理論に基づき、前衛党が権力を奪取し、プロレタリアート独裁を樹立することが提唱された。1917年十月革命の成功は、その実践的帰結である。
しかし革命の波及は限定的であった。1919年、ドイツではスパルタクス団が蜂起したが鎮圧され、ローザ・ルクセンブルクとカール・リープクネヒトは殺害された。ハンガリー評議会共和国も短命に終わり、ルカーチらは亡命を余儀なくされた。西欧諸国での革命は相次いで敗北し、1919年に創設された第三インターナショナル(コミンテルン)のもとで、ソ連は孤立を深めた。
1924年のレーニン死後、後継争いのなかでスターリンが権力を掌握し、「一国社会主義」路線を打ち出した。トロツキーは永久革命論を唱えたが追放され、最終的に1940年メキシコで暗殺された。ソ連ではプロレタリアート独裁が党独裁、さらに個人独裁へと転化し、五カ年計画、農業集団化、大粛清などが進行した。社会主義国家は、国家の消滅を目指す過渡的形態であるはずが、官僚的計画経済と個人崇拝に基づく体制として固定化された。この変質はマルクス主義にとって最大の悲劇であった。
スターリン体制はしばしばハンナ・アーレントらによってナチズムと並ぶ全体主義と位置づけられる。経済構造は異なるものの、個人崇拝と大規模な粛清という点で両者は類似性を持っていた。結果としてスターリン主義が社会主義の代表と見なされ、社会主義への深刻な幻滅を生んだのである。
レーニン段階にも問題は存在した。彼は経済主義を批判し政治的主導性を強調したが、前衛党による指導原理は、革命後に党=国家の独裁へと転化する可能性を孕んでいた。また哲学面でも、エンゲルスによる体系化を経て「弁証法的唯物論」が形成され、物が存在し意識がそれを反映するという素朴実在論的傾向が強まった。レーニンの『唯物論と経験批判論』はマッハ主義を批判したが、後にスターリン体制下で教条化され、「ディアマート」として公式哲学となった。
これに対して、西欧では別の理論的展開が見られた。ルカーチは1923年『歴史と階級意識』で物象化論を展開し、主体と客体の弁証法的統一を強調した。1932年には初期マルクス草稿が公刊され、マルクーゼらが疎外論を再評価した。こうして形成された西欧マルクス主義は、ソ連型の客観主義に対抗し理論的可能性を提示したが、主観主義的傾向を強めた側面も否定できない。ソ連マルクス主義が過度に客観主義的であったのに対し、西欧マルクス主義はヘーゲル左派的傾向を再び強める結果ともなったのである。
イタリアに目を向けると、工場労働者評議会運動の経験を背景に、アントニオ・グラムシが独自の理論的展開を行ったことが重要である。1926年に逮捕され、獄中で『獄中ノート』を執筆したグラムシは、単なる国家権力の奪取ではなく、市民社会におけるヘゲモニーの形成を重視した。レーニンが主としてドイツの戦時国家独占資本主義に注目し、そこに社会主義への移行の前提を見いだそうとしたのに対し、グラムシは早くからアメリカ型資本主義、とりわけフォーディズムに注目していた。大量生産・大量消費体制のもとで形成される新しい社会的規律や文化的統合を分析し、それに対抗する形での社会主義的再編を構想したのである。その意味で、彼のヴィジョンには左翼化されたフォーディズム、あるいはコーポラティズム的側面も認められる。しかし、グラムシの理論が戦後イタリア共産党の独自路線、さらには後のユーロコミュニズムに理論的資源を提供したことは否定できない。また、その問題意識はフランスのレギュラシオン学派にも継承され、レーニン的国家中心モデルを相対化する視座を提示した。
他方、中国では毛沢東が1937年に『矛盾論』を執筆し、社会には多様な矛盾が存在し、その都度「主要な矛盾」と「副次的な矛盾」が区別されると論じた。これはヘーゲル的な単線的発展観とは異なり、具体的状況に応じて戦略を柔軟に転換する実践的論理であった。毛沢東は長期の抗日戦争と国共内戦を経て、1949年に中華人民共和国を樹立する。これは植民地的・半植民地的状況に置かれた第三世界諸国にとって、新たな革命モデルを示す出来事であった。その後、大躍進政策や文化大革命(1966–76年)など重大な混乱と犠牲を伴う過程を経るが、中国革命が20世紀マルクス主義の重要な分岐を形成したことは疑いない。
このように20世紀のマルクス主義は、ロシア型、イタリア型、中国型など多様な展開を見せた。しかし現実には、スターリン主義が圧倒的なヘゲモニーを握り、それが「マルクス主義」の代表として理解されたことが最大の不幸であった。1953年のスターリン死去後、1956年のソ連共産党第20回大会でフルシチョフがスターリン批判を行い、体制の再検討が始まったが、同年ハンガリー動乱が武力で鎮圧されたことは、その限界を示した。1964年にフルシチョフが失脚し、ブレジネフ体制が成立すると、体制は保守化し停滞した。1985年のゴルバチョフによるペレストロイカとグラスノスチを経て、1989年の東欧革命、1991年のソ連解体へと至るまで、20世紀後半はスターリン主義の負の遺産の処理に費やされたと言ってよい。
とはいえ、1956年以降には新たな動向も生じた。中ソ論争によって中国は独自路線を打ち出し、イタリアではトリアッティが構造改革路線を提起し、後にベルリングエルのユーロコミュニズムへと発展した。冷戦終結後、イタリア共産党は早期に党名を変更し、左派連合「オリーヴの木」へと再編される。その過程は理想的とは言い難いものの、冷戦後の政治空白のなかで右派ポピュリズムに対抗する一定の役割を果たした。
他方、フランス共産党や日本共産党のように、スターリン主義を批判しつつもその体質を引きずった党は、1968年前後以降急速に影響力を失った。その時期、非共産党系の新左翼が台頭し、1968年の学生運動・労働者運動の高揚を主導した。戦後の資本主義は、フォーディズム体制のもとで労使妥協を成立させ、大量生産・大量消費社会を築いた。レギュラシオン学派が分析したように、資本と労働の矛盾は一定程度制度化され、春闘型交渉などを通じて分配が調整された。しかし1960年代末になると、公害や都市問題、ジェンダー不平等など、再生産領域に関わる問題が顕在化し、エコロジー運動やフェミニズム運動といった「新しい社会運動」が登場した。これは単なる消費者運動ではなく、生産様式全体の転換期における再生産の危機の表現であった。
ところが、多くの共産党は工場労働者中心の古典的パラダイムに固執し、新たな状況に適応できなかった。1968年には学生運動が労働者運動と結びつき、既成政党の枠外で高揚したが、共産党はしばしばこれに敵対的態度を取った。この段階で旧来の共産党は歴史的主導権を失ったのである。
1968年の思想的特徴としては、マルクーゼに代表される疎外論的傾向が挙げられる。彼はヘーゲル左派的要素とフロイト左派的要素を結合し、抑圧されたエロスの解放を唱えた。こうした思想はヒッピー文化と共鳴し、反体制運動を理論的に支えた。しかし、このロマン主義的構図に対しては批判も生じた。1960年代にはアルチュセールや廣松渉が初期マルクスの疎外論的読解に対し、「理論的切断」の重要性を強調した。マルクスの独自性は1845年前後の唯物史観の確立にあるとする立場である。こうした議論はポスト構造主義へと連なり、日本では柄谷行人らのマルクス読解にも影響を与えた。
廣松渉は『ドイツ・イデオロギー』草稿の綿密な研究を通じて切断説を実証したが、その哲学的構想は関係主義へと収斂し、唯物論の非対称性を十分保持し得たかについては議論の余地がある。これに対し、アルチュセールはスピノザを参照しつつ、経済的なものによる「最終審級における決定」を強調し、構造的・非対称的唯物論を打ち出した。彼の立場は、20世紀後半における最も一貫した唯物論的マルクス主義の試みの一つと評価し得る。
こうした理論的再編と並行して、イタリアでは1968年以降、学生・労働者の運動が「アウトノミア(自律)」運動として展開し、1976–77年頃に頂点を迎えた。ネグリはその主要理論家であり、『グルントリッセ』に立ち返って労働力の再生産や社会的労働の拡張に注目した。工場労働者と共産党を軸とする従来の枠組みが有効性を失うなかで、「いま・ここ・われわれ」の力能を党の媒介なしに実現すべきだと主張した。女性や移民労働者などのマイノリティを重視し、勤労倫理の否定や「働かないこと」の肯定さえ論じられた。これは旧来の党派的マルクス主義へのラディカルな批判であったが、その戦略がどこまで持続的・普遍的展望を持ちうるかは未解決の問題である。
ネグリは哲学的にはスピノザに依拠し、大衆の自律的力能を肯定する。しかしスピノザが構想した自律的秩序形成原理は、17世紀オランダの商業共和国という歴史的条件のもとで形成されたものであり、現代の高度資本主義社会にそのまま適用できるかは検討の余地を残している。他方、ネグリがガタリと共著した『自由の新たな空間』において、統合世界資本主義のもとで特異な個人が連携し特異化を深めることがコミュニズムの課題であると規定した点は、現代資本主義の分析としても、未来構想としても注目に値する。問題は、それを希望の理念にとどめず、具体的な世界資本主義分析に基づく理論へと深化させ得るかにある。
日本では、大正期にアナーキズムとボルシェヴィズムのいずれを採るべきかをめぐる、いわゆる「アナボル論争」が展開された。1922年には日本共産党が結成され、結果としてボルシェヴィズム路線が主導権を握ることになる。しかし、1923年の関東大震災後の弾圧や治安維持法の制定など、厳しい国家的抑圧のもとで党は地下活動を強いられた。こうした状況のなかで、山川均は前衛党建設に固執するのではなく、いったん解党して労働組合運動に軸足を移すべきだと主張した。他方、福本和夫は「分離・結合論」に基づき、純化された階級意識を持つ前衛集団が労働者階級を指導すべきであると論じた。この福本主義は1925年前後に影響力を持ったが、1927年にコミンテルンから山川の右翼日和見主義と福本の左翼冒険主義をともに批判するテーゼが出され、日本共産党は事実上コミンテルンの指導下に組み込まれていった。
1927年テーゼに続く1932年テーゼでは、日本社会の性格をめぐる議論が展開された。明治維新はブルジョワ革命であったのか否か、したがって次の革命はブルジョワ民主主義革命か社会主義革命か、という問題である。27年テーゼは、天皇制を頂点とする半封建的構造が残存しているとして、ブルジョワ民主主義革命を経て社会主義革命へと進む二段階革命論を採用した。しかし現実の日本はすでに資本主義が支配的となっており、直接社会主義革命を目指す一段階革命論も提起された。1932年テーゼは再び二段階論に立ち戻り、これがその後の日本資本主義論争へと発展する。一方の講座派は半封建的残存を強調し、他方の労農派はすでに資本主義が成熟していると論じた。いずれにせよ、コミンテルンのテーゼに依存する構図が、日本の理論的自立を困難にしたことは否定できない。
1930年代に入ると弾圧は激化し、1933年には小林多喜二が拷問の末に死亡する事件が起きた。多くの指導者が逮捕され、獄中で転向声明を出すに至る。転向論理のなかには、モスクワからの指令に従う運動は日本の大衆から遊離していたという自己批判が含まれていた。日本ファシズムは三木清らの議論にも見られるように、自由主義や共産主義を超える「協同主義」を標榜し、1940年体制の形成へと至った。この体制は戦後の企業中心社会にも一定の連続性を持つと指摘されることがある。
敗戦後、徳田球一ら非転向派を中心に日本共産党は再建された。占領初期には民主化が進められたが、1950年の朝鮮戦争を契機に占領政策は「逆コース」へと転じ、日本は再軍備と反共体制の前線基地とされた。党は対米従属を強調し、民族解放民主革命を経て社会主義革命へ進む二段階路線を掲げ、一時は武装闘争路線も採用した。しかし火炎瓶闘争などは大衆的支持を得られず、1950年には党は分裂する。その後1955年に再統一がなされ、1958年には宮本顕治体制が確立した。以後、極左冒険主義への警戒が強まりつつも、二段階革命論は維持された。
1956年のスターリン批判後には、イタリア共産党の影響を受けて構造改革路線を唱える動きも現れたが、党内で排除された。結果として党は宮本体制のもとで組織的に安定したが、硬直化も進行した。1950年代末以降、共産党から分離した新左翼諸派が登場し、1960年の日米安保闘争では共産党ではなくブントなどが主導的役割を果たした。1968年の大学闘争では全共闘が中心となり、共産党はむしろ秩序維持側に回った。ここにおいて旧左翼は歴史的主導権を失ったといえる。
もっとも、新左翼にも問題があった。1960年代の運動には疎外論的自己純化の傾向が強く、主観的急進主義が先行する側面があった。その極端な例が1972年の連合赤軍による浅間山荘事件であり、内ゲバと自己批判の連鎖が悲劇的帰結をもたらした。結果として、共産党は保守化し、新左翼は分裂と自壊を繰り返すという状況が生じた。
この停滞の背景には経済的条件もあった。1960年の三池争議を最後に、総資本対総労働の対決は後退し、高度成長のもとでフォーディズム的妥協が成立した。春闘方式による賃上げ交渉が制度化され、1970年代半ばには「一億総中流」意識が広がった。階級的対立は一定程度緩和され、左翼の動員基盤は弱体化した。
しかし1970年代以降、フォーディズム体制は揺らぎ、グローバル化が進展する。1990年代初頭のバブル崩壊以降、日本経済は長期停滞に入り、格差や不安定雇用が拡大した。グローバル競争の激化のなかで矛盾は再び顕在化しているが、左翼は新旧を問わず有効な展望を提示できていない。
世界資本主義がグローバルに展開し、その矛盾が顕在化している現在は、ある意味でマルクスが想定した資本主義の成熟段階に近いとも言える。過去の社会主義の誤謬を批判的に総括しつつ、その負の遺産に拘束されないかたちでマルクスを再検討することが、あらためて課題となっている。